「水準」と「架橋」について

またごたごたについて書くよ。無風はもうちょっと待っていてくれ。貴方が怒った理由がまだ「ピンとこない」んだ。「貴方が感じている怒り」への私の共感が醸成されるまで、もう少し時間がかかりそうなんだ。長引かせて申し訳ないが許してほしい。

phaに対する返信を続けるよ。とても長い文になった。的外れかもしれない。あなたはもううんざりだろうけど、出来たら読んでみてほしい。

貴方の指摘はとても的を射ていると思う。特に最初の「他人のみならず自分の感情にも無自覚であること」というのはあまり意識したことが無かった。人の気持ちが解らないことはよく知っているつもりだったが、その原因が自分の感情への無頓着さだとは考えなかった。信じられないことかもしれないが、この一年くらいの私の内的目標は「他人の自尊心を傷つけないこと」だったのです。しかし、個々の感情の発露では「人を馬鹿にする」という悪習を捨てられていなかったのだろう。反省します。

次に「人の感情に反応しないということ」について書く。こっちがメインだ。この話は、貴方の言う「こちら側」と「そちら側」の話と関係している。

前提になっているのはコミュニティの複数性です。「島宇宙」といいかえてもいい。そしてそれぞれのコミュニティでは価値観も、コミュニケーションの様式も、思考方法も異なっている。かつては文明単位の大きなまとまりで切り分けられていた(例えばイスラムとか西欧文明とか)コミュニティが、現在はもっと微小に切り分けられていて(例えばゴスロリとかディジュ好きとか)、一人の人間が複数のコミュニティに所属することが可能/必要になっている。当然異なるコミュニティ間を移動する時には、「モードの切り替え」が必要になる。この切り替えがうまくできないと、揉め事が起こる。

私と貴方たちがここしばらく揉めやすくなっているのは、この点に関わっている。私たちは多分、かつて同じコミュニティにいた。そこでは私たちはある程度仲良く振舞うことが出来ていた。しかし、今私たちは人生の岐路にいて、それぞれ別のコミュニティに進もうとしている。蓄積してきた差異も大きくなっている。そしてそういう時、もっとも火花が散りやすくなっているのがコミュニケーションの現場なんだ。

コミュニケーションについてこれから説明する。ここで僕の使うキーワードは「水準」と「架橋」です。

コミュニティごとに、よしとされるコミュニケーションの様式がある。よく言われるのは「男と女」とか「日本と外国」とかだ。前に揉めてから、「人の気持ちがわかる」系の本を読むようにしていて、役に立ったと思う本は「女性を動かすのがうまい人ヘタな人」(伊藤明)だ。この本では、「男性がコミュニケーションを情報の交換ととらえるのに対して、女性は感情の共有ととらえる」という基本理念に基づいて男女のすれ違いについて述べていく。これはpha氏が言っていたことと非常によく似ている。「日本と外国」の例では、文化人類学者のエドワード・ホールがハイコンテキスト社会とローコンテキスト社会というフレームで日米の比較をしている。

こうした論がある程度納得できて、ある程度胡散くさいのは、集団の分類が乱暴だからだ。集団の成員の全てがそうした特質を持つわけではない。しかしそうでないともいえない。
重要なことは、コミュニティ間に、コミュニケーションの様式の差異があるということだ。基本的にはロジックを重んじるか/感情を重んじるかという二択になると思う。(ただ、この言い方はあまり正確じゃない。僕なりに整理すると、「相互の主観への共感」と、「客観的外在の認知」のどちらを重視するか、だ。この二つの間をフィードバックするものとしてロジックがあると考えている)

僕のいう「水準」とは、「それぞれのコミュニティでコミュニケーションについて重視されるもの」のことだ。女性は感情の共有を重視する。これが彼女たちの「水準」だ。男性たちはロジックを重んじる。これが彼らの「水準」だ。両者の「水準」には差がある。これがすれ違いの原因だ。例えばセクハラというのも多くはプライバシーに関する「水準」の差から起こる。そういえば、僕が貴方たちを傷つけるのはセクハラに似ているかもしれない。僕はもともと人の気持ちの機微を深く考えなくてすむ同質的なコミュニティで成長してきたし(男子校ね)、ある時期から意識的にロジックを重視するコミュニケーションを志向してきた。そして結果的に、貴方たちとの「水準」の差は広がってきている。

二つの主体の間に「水準」の差がある場合、多くは関係を遠ざけようとする。コミュニティが分化していくのはまさにこのためだ。実際、このところ貴方たちは僕から距離をとろうとしているのではないだろうか。ここで問題になるのが、「架橋」というキーワードだ。

「架橋」とは「水準の差をつなぐこと」だと考えてほしい。異質な人々に出会おうとすること。彼らのコミュニティに近づこうと、もしくは参加しようとすること。私は「架橋」出来る人間になりたいと考えている。異なるコミュニティで得られるものは刺激的だ。しんどいことも多いが。そして、一般的に言って、これからの時代大きな価値を生む活動とは「架橋工事」になるだろうとも予測している。この一年、慣れない同人誌なんかに参加してきたのはそういう異質な場で経験をつむという学習をする意味もあったんだ。

僕が「弱さ」の話でしたかったのはそういうことなんだ。最近無風やbonたちが就職活動をしている。就職活動という場で求められる心性は、彼らのコミュニティの心性からは遠いところにあるものだと私は感じている。そして、そこの「モードの切り替え」をうまくしないと就職活動がうまくいかないのではないかとも感じている。私自身が切り替えを失敗して、就職活動のときベストの結果を出せなかったからだ。

友人がそういう状況にいるとき、多くの人は適当な距離を保って、「陰ながら応援してるよ。がんばって」といって静観するのだろう。人は他人から何か言われて考えを変えたりはなかなかしないものだから、労力と成果を比較してそうする。相手だって薄々解っていることだろうし、今解らなくても将来はわかることだろうし、気づかなければそれはそれまでのことだ。それがたぶん大人というものだ。お互いのために距離をとること。

しかし、僕はあえて「架橋」することで何かの価値を生み出せるのではないかと考えてしまう。だからこそ、余計なちょっかいをコメント欄で書いてしまうのだ。それは中途半端なやり方で、結果的には何の役にも立たず、人を傷つけるだけに終わる。それが僕の卑怯で、至らないところだ。それに増していけないのは、僕が自分勝手な方法で「架橋」を行おうとしてしまうことだ。かつて「他人に対する優しさの矛先がいつも自分基準」だ、と批判されたことがある。きっとそうなのだろう。相手の気持ちを考えなければ「架橋」なんて出来るはずが無いのだから。僕のゴリゴリした話し口に相手は辟易するだろうし、僕は相手の感情が読めなくていらいらする。そうやっていつもうまくいかないんだ。

僕と貴方たちのコミュケーションがうまくいかないのは距離をとっているからじゃない。僕が距離を縮めようとしているからだ。そしてそれは、もう迷惑なだけかもしれないね。

いまのところ感じているのはそういうことです。うまくわかってもらえたかどうか解らないけどね。これからはコメントは控えるようにするよ。