鉛筆を1000本折ることへのオマージュ

鉛筆を1000本折る会を開催しようと言い出したのは赤田だった。
私は、一抹の不安を感じながら、しかしそれでも逆らいがたい魅力を感じて、
それを行なうことに同意したのだった。


鉛筆を1000本折る。何の思想もなく、無意味に。日常の作法からは程遠いふるまいである。
蛮行と呼んでも差し支えないかもしれない。衆目に触れれば非難の声が立ち上がるのは避け難いだろう。
エコロジカルな観点からは言語道断といっても過言ではない。
しかしそれでも私はそれを実行することにした。
それは、そこにある種の倫理的な挑戦の可能性を見出したからである。


「鉛筆を無駄に1000本折る」という案を聞いたとき、
私たちが感じるこのざわざわした不快感は、いったい何に由来するものであろうか。
生理的な嫌悪といってしまえば話は単純である。
しかし、よく耳にするこの「生理的嫌悪」という言葉を軽々に免罪符にしてはならないだろう。
例えば、ある種の人種差別者が他の人種への生理的嫌悪を表明するときを考えてみればよい。
そのような感覚自体が社会的に容認できない、と主張したくなるのではないだろうか?
生理的嫌悪というところで論を止めることは知的な怠惰でしかありえない。
より精密なロジックが必要とされるはずである。


経済的な軸からこの不快感を説明することも可能である。
「鉛筆がもったいないじゃないか!」という正しく心強い叫びが聞こえてくる。
だがこれにも反論は可能である。鉛筆1000本の金銭的価値はせいぜい1万円程度である。
この程度の蕩尽を許さない程この国の経済は脆弱ではないし、
逆に言えばこの程度の蕩尽に覚えのない人もこの国には少ないはずだ。
罪なき者から石を投げよ。とりたててこのテーマにのみ怒りを向ける必要はないはずだ。


必要に迫られてする消費と故意に鉛筆を折るなどという愚行を比較するなど単なる屁理屈、
そのような心のあり方こそが醜い、というお叱りはいかがだろう。
お説ごもっともで恐縮だが、結果として無駄なことをしているなら同罪のはずだし、
心がけの良し悪しは美学的な問題。客観的なスタンスからの議論にはそぐわない。
美意識の一般的な共有は、易しいことではないでしょう。


鉛筆のもつポテンシャルを損失しているという観点からの批判はどうだろうか?
1000本の鉛筆はおそらく何百時間か何千時間かの記述・描画に耐えうる使用上の可能性を持っている。
その損失ははかりしれないと嘆くのも一つの見方である。
この批判はやや本質的な部分をかすめているが、それでも決定的ではない。
記述・描画に対して鉛筆の持つ使用上の可能性と、
折ることによって生じる使用上の可能性の比較ができないという問題がある。
知る限り、鉛筆を1000本折ったものは周りにいない。
まだ存在していない事象を比較の対象にすることはできない。
それに。折れた鉛筆だって使うことはできる。


以上のように、ある程度の幅での批判とそれに対する反論を考えてみた後で、
あらためて鉛筆1000本を折るという行為について見つめてみる。
物事にまとわりつく物語性を極力排除したところで、
純粋に鉛筆を我が身を用いて折るということを実行してみた。


浮かび上がってきたのは、肉体とマテリアルの原始的な対立であった。
鉛筆の山に手を伸ばして一本を手に取り、両手に持ちかえて握り、
力をいれて、折る。この刹那、鉛筆を折るということの新しい地平が拓けるのである。


(続く)