最近の読書

大塚英志について無駄に長く書いてしまったが、
福田和也についても書いてしまおう。

福田和也 『余は如何にしてナショナリストとなりし乎 』

前掲の大塚書に福田和也について書いた一章があり、
ようするに「福田和也は何で右翼になったのかわからん」
というようなことが書いてある。
80年代の人がいろいろ試行錯誤して
いろいろな「物語」の可能性を追求してたのに、
90年代以降全部「公」に回収されてしまっているのに
大塚は割り切れなさをかんじていたらしい。
それは福田に限らないわけだが、
要するに「右翼になる必然性」がわからないということ。
たくさんの選択肢の中からそれを選んだ理由。
こういう形式の問いかけそのものが
右翼思想の根底を覆すものではあるんだけど。
(右翼思想の絶対性を相対的に切り崩してしまいますから)


それで、福田はこの問いに答えるわけだが、
やっぱりよくわからなかった。

きっかけは大きく二つ、
1高校のときのアメリカ遊学
2大学院生のときのフランス留学
らしい。

海外行ってナショナリズムに目覚めるってのはよくある話で、
別に意外でもなんでもないのだが、
ということは、海外にいかないと目覚めないわけで、
そうすると福田のいうような、
自然な感情としてのナショナリズムって変な感じがする。
あとづけだろそれ。


あとづけでもいいんだが、
問題なのは共有の価値観が崩壊した後、
価値観が分立する時代に
どうやって人々を纏め上げるのか/
または意見を纏め上げるかというところでしょう。


ナショナリストになるには遊学が必要なのか?
日本人全員遊学するか?そんな金はないだろう。
というわけで方法論として
ナショナリズムは難しいんじゃないのかとおもった。 
あとづけのナショナリズムでも
すっと人心に浸透させられる技があればいいんだろうけど。


それと、福田がナショナリズムを肯定する方法が
「インターテクスチュアリティ」とか「責任倫理」とか
西洋の思想ツールであることも気にはなる。
そんな毛唐の人のやり口でよいのか。
ただ、福田の右翼論が受け入れられている大きな理由のひとつが
こういう現代思想の使用にあるのは確かだろうから、
あんまり重箱の隅をつつくのはよくないのかもしれない。


といって福田和也が嫌いなわけではないんだけど。
そんなに好きでもないが。